わたしはドローイングをするための道具【Drawing Machine】を制作し、ドローイングを行います。きっかけは、わたしの頭の中を整理するためにはじめたドローイングでした。鉛筆、ペン、絵の具。そして、紙もコピー用紙から罫線入りのノート、お菓子のパッケージやレシート、ダンボールや古紙。色々なモノに触れました。しかし、わたしにはドローイングが何かわかりませんでした。ある時、憂鬱な気持ちが溢れていても、毎日の日課であったドローイングをしようと一本の筆をとりましたが、その日はもう憂鬱が勝ってしまいテキトーに作業しました。何も考えずに古紙や段ボールを繋ぎ合わせた後、10本ほどの筆を墨に付けて雑に繋ぎ合わせた紙にテキトーに描きました。美しくもなく、特別な感情を込めたわけでもなかったのですが、自身の中の靄が晴れるような感覚になりました。その行為はわたしの中の漠然とした不安や現代社会で生きることへの葛藤、その他日々享受する莫大な情報、それら混沌としたモノを全て吐き出したような、まるで吐かずにはいられない、衝動や本能に似た何かを感じました。そのときの行為と感覚から、現代社会を生きる中で抑えきれない衝動や人間が内包する本能を呼び醒ますようなドローイングをするための道具を創りたいと考え、【Drawing Machine】の制作をはじめ、ドローイング行為を始めました。そこから、理性や落ち着いた思考では説明できない人間の中に内包される感覚や衝動、本能といった「野生の思考」とも呼べるような考えに従って表現活動を始めました。そのため、Drawing Machineの素材には制限がなく、わたしが生活する中で感覚的に惹かれた拾得物などを使用しています。支持体についても同様です。また、制作する場や表現する場、私には大きなスタジオやアトリエはないので、公園や使われていない駐車場、風呂場などでドローイングをしています。
そもそも、このような行為に至ったきっかけというのは、現代社会の中で生きることによって享受することになる莫大な情報量と目まぐるしく変化する現代社会の様子から生じる未来に対する漠然とした不安が自身の中に沈殿して凝固していたのがきっかけでした。それらを吐き出し、整理する、そして自身の中に溜まる沈殿物を溶かすようにして新しい自分を形成する行為、それ自体がいまの社会を生きていきたいという本能的な行為であり、乗り越えるための力になるのではないかと考えています。
創りたい、表現したいという本能的にも見える欲求から生じる表現活動は、無秩序且つ不確実性が増す現代社会を生き抜くことにも通じる部分があり、それらの不安や心の不自由を超えた先に自由を掴み取ることができる行為であると私は信じています。
このような行為や思考の深層には、「生の芸術」を提唱したジャン・デュビュッフェの思想やクロード・レヴィ=ストロースによって提唱された「野生の思考」が示す未開社会の知的営為と人間が内包する衝動性や本能といったむき出しにされた「生(なま)」がわたしの無意識化で絶えず流れているからなのではないかと感じています。日々混沌化が進む現代社会の中において、わたしはわたしだけにできる表現活動を全うし、自身を見失うことなくこれからの時代をどう生きるかを見つめていきます。そして、その先にある自由を掴み取るために、わたしはこれからも表現すること、生きることを諦めません。








